ごん狐


 新美南吉といえば「ごん狐」。長年、教科書教材として親しまれてきた「ごん狐」の知名度は、他の南吉作品を圧倒しています。この作品が初めて教科書に採用されたのは昭和31年でした。以後、次第に採用する教科書会社が増え、昭和55年以降は全社が採用しています。ざっと計算をすると、これまで約5000万人が教科書で「ごん狐」を読んでいることになるそうです。
 「ごん狐」は文学作品として、また国語教材としてさまざまな魅力を持っています。
 まず「優れた物語の展開」。読者の気持ちを次第にごんの側に立たせ、ごんの思いが兵十に伝わることを十分期待させながら、意外な結末へと急展開させるストーリーの巧みさは見事というほかありません。
 次に「巧みなごんの心理描写」。いたずら狐・ごんの心情が次第に変化していく様子が丹念に描き出されています。登場人物の気持ちを考え、文学作品の読解力、鑑賞力を育てる国語教材としてはまことに適しているといえます。
 さらに、秋の季節感を大切にしながら、自然・風景を美しく描写していることも文学作品としての価値を高めています。「ごん狐」は、これまで箕田源二郎、黒井健、いもとようこ、かすや昌宏など多くの画家によって絵本化されていますが、画家にとっても制作意欲をそそる作品なのでしょう。
 そして、やはり「心の交流」という普遍的なテーマを描いていること。しかし、南吉はそれを安易には描きません。ごんの死という大きすぎる代償をもってようやく二人は解り合うのです。そのため、読者はどうしようもないやるせなさを覚えますが、その哀しさは火縄銃の筒口からのぼる青い煙とともに美しく昇華され、私達の心にいつまでも残るのです。南吉はすでに中学4年生の日記にこう記しています。

「やはり、ストーリイには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変る。けれどその愛は、芸術に関係があるかどうか。よし関係はなくても好い、(愛が芸術なら好いけれど)俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリイをかこう。」(昭和4年4月6日)

 それから2年半後に書かれた「ごん狐」は、その思いを見事に実現した作品だといえるでしょう。

 「ごん狐」は、昭和6年10月4日に草稿「権狐」が書かれ、『赤い鳥』昭和7年1月号に掲載されました。すでに中学時代から、『少年倶楽部』をはじめ、『愛誦』『緑草』など様々な雑誌・同人誌に作品を入選させていた南吉にとって、鈴木三重吉が主宰し、北原白秋が童謡欄を担当する『赤い鳥』は最大の目標だったといえます。最初に入選したのは童謡「窓」(昭和6年5月号)。以来、童謡は毎月のように入選・掲載されました。童話は8月号に「正坊とクロ」がはじめて入選、11月号に「張紅倫」、そして3度目の入選作が「ごん狐」でした。

ごんぎつねを書いた頃の南吉 「ごん狐」を書いた頃の新美南吉
昭和6年3月、半田中学校(現・半田高等学校)を卒業した南吉は、岡崎師範学校を受験したものの体格検査で不合格となり、4月から8月まで母校の半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)で代用教員をしていました。「ごん狐」は退職後の10月に草稿が書かれました。
写真は小学校の廊下で撮影し、サイン(本名の新美正八)をして初恋の女性に贈ったもの。
担任をしていた2年生の児童達と 担任をしていた2年生の児童達と
女の子ばかりですが、男子児童と一緒に撮ったものももちろんあります。
田舎の小さな学校でしたが、それでも当時は別々に写真を撮ったんですね。
南吉は子ども達に自作の童話を語って聞かせていたそうで、なかには「ごん狐」を聞かせてもらったことを覚えている、という教え子もいます。
伝中山城跡 伝中山城跡
新美南吉記念館に隣接する童話の森は、「ごん狐」の冒頭に「むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。」と書かれている中山城の跡だといわれています。
「中山さま」は、戦国後期、実際に岩滑の領主だった中山勝時のことで、徳川家康の生母、於大の方の妹を娶っていました。
権現山 権現山(左側の山)
作品のなかに地名としては出てきませんが、「ごんげんやま」の狐の意で「ごん狐」と名付けられたのではないか、と考えられています。
実際に南吉が子どもの頃、権現山の辺りには狐が住んでいたそうです。
矢勝川とはりきり網 矢勝川とはりきり網
兵十がはりきり網でウナギを捕っていた川。岩滑の北辺を流れ、背戸川ともいわれました。
はりきり網は待網ともいわれ、台風などで池の水が溢れ出すようなとき、下流に張って落ちてくるウナギなどを捕りました。
写真はNHKの取材で再現したときの様子です。
六地蔵 六地蔵
半田工業高校隣の北谷墓地にたたずむ六地蔵。もともとは現在岩滑コミュニティーセンターが建っているところにあった村の墓地に並んでいましたが、「ごん狐」が書かれた後の昭和8年に共同墓地が作られ、現在の位置に移されました。入口を入ると両側にずらりとお地蔵様が並んでいるので「?」と思うのですが、これは岩滑以外の各地区からも移されたためで、岩滑の六地蔵は入ってすぐ左側だそうです。
北谷墓地には昭和35年に建てられた南吉の墓もあります。
江端兵重愛用の銃 江端兵重愛用の銃
主人公のひとり兵十は岩滑新田に住んでいた江端兵重という人がモデルになったと考えられています。はりきり網などで川漁をするのが三度の飯より好きで、猟銃をもっていて鳥撃ちもしたそうです。
写真の銃は新美南吉記念館で展示されています。
岩滑小学校の権狐碑 岩滑小学校の権狐碑
南吉の母校、岩滑小学校にある文学碑。昭和60年、同窓会によって建てられました。運動場の隅から、南吉の後輩たちの元気な姿をいつも見守っています。
刻まれている字は草稿からとった南吉の自筆です。

ごん狐の草稿 「ごん狐」の草稿(「権狐」)
 通称スパルタノートと呼ばれているノートに書かれています。題名下のメモにあるように、これを清書して『赤い鳥』に投稿しました。
 清書をする段階でどこまで手直しがされたかは清書稿が現存しないため不明です。しかし、掲載された「ごん狐」との間に見られる異同の多くは、『赤い鳥』主宰者の鈴木三重吉による書き換えだといわれています。
 三重吉は『赤い鳥』に送られてきた他人の原稿に躊躇なく手を入れることで有名でした。当時、すでに名を成していた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」にもペンを入れたことはよく知られています。当時、無名の文学青年だった南吉の作品も当然のように直されています。
 ただ、三重吉の手直しによって、作品がより子どもに読みやすいものになった、とはいえるでしょう。例えば左の冒頭部分。南吉は長々と前置きを書いていますが、『赤い鳥』では「これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。」と簡潔にまとめられています。
 しかし、鰯売りの掛け声が方言の「鰯のだらやすー。」から標準語の「いわしのやすうりだァい。」に直されてしまったのは、南吉文学の特徴のひとつが郷土性にあることを思うと、残念な思いがします。

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