小さい太郎の悲しみ


 「小さい太郎の悲しみ」は南吉の最晩年にあたる昭和18年1月9日に書かれた作品です。結核末期だった南吉は勤めていた安城高等女学校を休職し、自宅で最期の闘病生活を送っていました。死を2ヵ月半後にひかえた南吉はどんな思いで、この作品を書いたのでしょうか。
 作品の背景に幼くして養子に出されたときの記憶があることは容易に想像されます。南吉は8歳のときに生母の実家である新美家へ養子に出されました。当時、新美家では叔父が亡くなり、南吉にとって血のつながらない祖母志も(生母りゑの継母)がひとりで暮らしていました。南吉は新美家の跡取りとして迎えられたのです。新美家は土地持ちの裕福な農家でしたが、幼い南吉にとって心楽しい場所ではありませんでした。自分になつかず、反抗ばかりする南吉に、志もは「我儘にしとねて育てて、ええ子にならんと、申訳けがない」と籍は新美家に残したまま、半年ほどでもとの渡辺家に彼を返しました。
 南吉は4歳で生母りゑを失っています。彼女もまた結核だったといわれています。まだ幼児だった南吉にその頃の記憶がどれだけあったかはわかりません。しかし、この8歳での養子体験はたとえ半年間だったとはいえ、南吉の心に拭いがたい影を残したようです。その辛い体験の舞台である養家は、また一方で恋しい生母の実家でもあるため、南吉にとってさまざまな思いを呼び起こす場所だったことでしょう。
 南吉は生涯に多くのものを失ってきました。生母、家族(養子に出たことで引き離されて)、恋人、そして健康。そのため、南吉は孤独に苦しみ続けました。そのことが、彼に「交流の物語」を書かせる一方で、「小さい太郎の悲しみ」のような「喪失の物語」も多く残させたのでしょう。そして自分の肉体が滅ぶことでもう何もかも失うという最期のとき、彼の思いは、生涯の孤独感・喪失感の原点である養家での記憶に回帰していったのではないでしょうか。
 こうして生まれた「小さい太郎の悲しみ」の原稿は、翌月、そのほかの未発表作品と一緒に先輩の詩人巽聖歌のもとに送られました。そして、聖歌の尽力により、童話集『牛をつないだ椿の木』(大和書店)に収録・発表されました。南吉の死から半年後の昭和18年9月のことです。

南吉の養家 南吉の養家
大正10年7月、南吉は岩滑の渡辺家から西へ2.5キロメートルほど離れた岩滑新田の新美家へ養子に入りました。現在も当時の姿のまま公開されています。
また、裏にある倉の中は資料室になっていて、『赤い鳥』や代用教員時代の職員名簿、南吉のブロンズ像などが見られます。
要予約 かみや美術館 電話0569−29−2626 
見学料300円 駐車場有
養家の内部 養家の内部
典型的な田舎の四つ住まいのつくり。養母と二人きりの生活には広すぎる家でした。
岩滑新田の路地 岩滑新田の路地
主人公の太郎は「細い坂道をのぼって大きい通りの方へ出てゆき」、安雄さんに会いに行きます。舞台になった岩滑新田(半田市西部)を歩くと、作品に流れる静かな農村の空気をいまも感じることができます。
養家の屋根に多い被さる山桃。 養家の屋根に覆い被さる山桃
南吉が無題作品「常夜燈の下で」の中で「古色蒼然たる」と書いた山桃。幼い南吉はこの山桃の大木を見上げ、寂しさを一層つのらせたのでしょう。


「おばあさんの家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮があり、前には広い庭と畑があり、右隣は半町も距たってをり、左隣だけは軒を接していた。そのような寂しい所にあって、家はがらんとして大きく、背戸には錠の錆びた倉が立ち、倉の横にはいつの頃からあったとも知れない古色蒼然たる山桃の木が、倉の屋根と母屋の屋根の上におおいかむさり、背戸口を出たところには、中が真暗な車井戸があった。納戸、勝手、竈のあたり、納屋、物置、つし裏など暗くて不気味なところが多かった。……おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に分れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂寞の中に生きて来たためだろうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温(ぬくい)ものをもっていなかった。何かによって自分を救おうとして、様々な努力を試みた。死んだ叔父さんが若い時に読んだという多くの書物の中の絵という絵を彩って見たり、掬って来た鮒をバケツに入れて飼ったり、竹馬を造ったり紙鉄砲をとばしたり。しかしそれらはみな心の空虚を満してはくれなかった。日暮になると私はもうどうしたらよいか解らなかった。柊の木の下や、軒端に積まれた藁の上にちょこんとして、遣り場のない寂みしさを、藁のすべを噛み噛みこらえていた。そんな時に、どこかの知らない人が野良の帰りに、どうして知ってるのか私の名を呼んで、『おとなしいの』とやさしく言ってくれると、ふと温いものを感じて、眼頭が熱くなって来るのであった。」  (無題「常夜燈の下で」)


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