手袋を買いに


 「手袋を買いに」は数ある南吉作品のなかでも「ごん狐」と並んで人気の高い作品です。最近まで小学3年生の教科書に採用されていた、ということもありますが(その後復活し平成26年現在は2社が採用)、「美しく幻想的な描写」「優れた物語性」「純粋で行動的な子狐による冒険と困難の克服」「魔法」「母子の愛」など、物語としての魅力に溢れた作品であることが多くの読者に愛されている理由でしょう。「手袋を買いに」は、多くの画家の手で絵本にもなっています。とくに黒井健による絵本(偕成社)は、フランス、韓国、アメリカでそれぞれの言葉に翻訳され、出版されています。
 このように海外でも愛されている「手袋を買いに」ですが、実は謎の多い作品でもあります。

 通常、「手袋を買いに」は南吉が東京で暮していた昭和8年12月26日に書かれた作品とされています。これは原稿の末尾に「一九三三・一二・二六よる。」と記されているからです。しかし、当日の日記を見ると、先輩の詩人である巽聖歌の家で原稿整理を手伝い、夕飯までご馳走になるなど、とても作品を書く余裕があったとは思えません。またこの日を含め、遺されているこの年の日記に「手袋を買いに」に関わる記述は一切ありません。
 このため、作品の成立時期については様々な議論があります。この翌日、南吉は未明に起きて東京から中央線回りで帰省しました。そのため、信州の雪景色から物語の着想を得た南吉が実は帰省中に書いたのではないか、とする意見もあります。一方、作品の大半はすでに書かれていて、この日に最後の推敲をして日付を付したのではないか、とする意見もあります。作品の最終場面では次のような推敲がなされています。

<推敲前>
「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間がいいものなら、その人間を騙さうとした私は、とんだ悪いことをしたことになるのね。」とつぶやいて神さまのゐられる星の空をすんだ眼で見あげました。

<推敲後>
「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。

 どうして南吉はこのような推敲をしたのでしょう。当時の南吉は、人間、とくに彼の周囲にいる大人たちに対して不信感を抱いていたと考えられるのですが、そのことと関係があるのではないでしょうか。
 南吉は文学者の系譜でいえば北原白秋の門下にあたりますが、一方で『赤い鳥』主宰者の鈴木三重吉にもその才能を認められていました。ともに『赤い鳥』のために力を尽くしてきた白秋と三重吉ですが、昭和8年春に決別、白秋は『赤い鳥』を去ってしまいます。このため、白秋門下の南吉らは同年4月号を最後に『赤い鳥』への投稿を止めざるを得ませんでした。それまで『赤い鳥』に童謡をほぼ毎号、童話は「ごん狐」など4編を入選させてきた南吉にとって重要な作品発表の場を失ったことになります。そこで南吉は白秋門下の若手詩人達と語らい、新しい童謡雑誌をつくろうとします。しかし、その計画も白秋の「時期尚早」との意見により、諦めざるを得ませんでした。クリスマスイブに白秋邸を訪問したときのことで、「手袋を買いに」の原稿の末尾に記された日付の2日前にあたります。
 つまり、推敲後の母狐のつぶやきは、大人たちの都合に翻弄された南吉自身のつぶやきなのではないでしょうか。そう考えると、「一九三三・一二・二六よる。」という日付と当日の時間的制限の問題も解けてきます。まず、当日を含めてこの年の日記に「手袋を買いに」に関する記述がないことから、やはりこの作品はかなり以前にほぼ書き上げられていた、と考えるのが自然でしょう。そして昭和8年暮れ、新童謡雑誌計画の中止をきっかけに、白秋と三重吉の決別以来南吉が抱いていた人間に対する不信、懐疑の思いが高まり、明朝早く帰省するという12月26日夜、母狐のつぶやきの書き換えなど一部の推敲を短時間のうちにし、その日付を原稿に書き込んだのではないでしょうか。

東京時代の南吉
南吉は昭和7年4月から昭和11年3月まで東京外国語学校英語部文科に学んでいました。「手袋を買いに」はその2年生、20歳のときに書かれた作品です。
南吉が兄事した巽聖歌
東京時代、南吉は白秋門下で兄弟子にあたる巽聖歌に可愛がられました。上京後しばらくは巽が借りていた家に寄寓し、外語の寮や下宿に移った後も我が家のように出入りしていました。
戦後、志半ばで亡くなった南吉を世に出そうと出版界に働きかけ、数々の作品集や全集(牧書店版)の発行に携わりました。
彼自身も童謡「たきび」や「水口」で日本童謡史に大きな足跡をのこした詩人です。
南吉が下宿していた部屋
南吉は昭和8年5月から昭和10年春頃まで、現在も中野区新井にのこる川村家の二階の三畳間に下宿していました。「手袋を買いに」の推敲もおそらくこの部屋でされたのでしょう。
「手袋を買いに」碑
新美南吉記念館に隣接する童話の森の入口に立っています。寄り添う親子の狐の姿がほのぼのとしていて、記念撮影スポットとして人気があります。平成6年、半田ライオンズクラブから寄贈されました。
岩滑小学校の烏臼と「落葉」詩碑
南吉は後に「手袋を買いに」を懐かしんで「落葉」という詩をつくっています。「手袋を買いに」に対する少なからぬ愛着がうかがえます。

私ガ烏臼ノ下ヲ/ユクト/金貨デモクレルヤウニ/黄イ葉ヲ二枚/落シテヨコス/サテ私ハ/コノ金貨デ/手套ヲ一揃買ツテ/懐シイ童話ノ狐ニ/持ツテツテアゲヨウ (「落葉」)
※烏臼=ナンキンハゼのこと

山半の店先を飾っていた欄間
大正時代の初めに開業した山半は半田を代表する帽子屋でした。昭和4年頃に新築された店舗には洒落たデザインの欄間が飾られ、「手袋を買いに」の帽子屋を思わせる雰囲気がありました。しかし、平成7年に取り壊され、欄間は新美南吉記念館に寄贈されました。


戻る