和太郎さんと牛


 南吉作品に対して郷愁を覚えるという人は多いのではないでしょうか。戦前から戦中にかけて書かれた彼の作品には、いまは失われつつある田舎の景観、子どもの遊び、信仰、仕事、生活習慣などが豊かに描かれています。「和太郎さんと牛」もそうした郷愁を誘う作品のひとつですが、この作品で印象的なのは人の集まりとしての村の描き方です。
 和太郎が行方不明になったとき、村では青年団はもちろん「ほかの大人や、腰のまがりかかったお爺さんまで」が集まり、鉦や太鼓を打ち鳴らして夜通し山の中を探し回ります。南吉の巧みなところは、その捜索にあたっている村人達を個性豊か、且つユーモラスに描き出していることです。和太郎は「狐にばかされたのだ」と力説する富鉄、宝蔵倉から眠っていた法螺貝を引っぱり出してきた「もと吉野山参りの先達」の亀菊、その亀菊に自分が吹くラッパを「まるで象のおならみてえだ。」と酷評され、腹を立てる青年団ラッパ手の林平等々…、村人一人一人の顔が見えてくるようです。一見、彼等は銘々が好き勝手なことを言い、まとまりがないようにも見えます。しかし、全員が行方不明の和太郎を心配し、また年老いた彼の母を気づかい、一致協力して捜索にあたります。戦後、各地で急速に失われていった、地縁により結ばれた社会<地縁共同体>としての村の姿が、この作品では実に活き活きと魅力的に描かれています。同じような作品に、戦争で供出される鐘との別れを村中で惜しむ「ごんごろ鐘」という物語もあります。
 では、どうして南吉は地縁共同体としての村に目を向けたのでしょうか。それはやはり、四年半の東京生活(東京外国語学校に通い、後に就職もした)で自分の村(岩滑)を外から見ることができたからでしょう。地域での人間関係が希薄な大都会にあって、田舎の濃密な人間関係は煩わしく思える反面、作家としての目には非常に面白い人間模様として映ったかもしれません。
 また、東京時代の南吉が中野区に暮らしていたことも影響しているかもしれません。当時、新たに区となった中野では、地方から流入してきた新住民ともともとの住民との間で摩擦が起き、深刻な問題となっていました。昭和10年当時、区民のうちで地元中野区出身者はわずか二割、あとの八割は転入者、しかもその過半は他府県出身だったといいます。学生であった南吉がどれだけ地域の問題に関心をはらっていたかはわかりません。しかし、そうした環境のなかで、あらためて自分の故郷を想い、そこに残る人々の絆に気付いたということはあるかもしれません。

大道に面して鎮まる住吉神社
岩滑と半田の町をつなぐ通称「大道」に面して住吉神社があります。昔、鳥居の前の道に大きな松が生えていて、そばには「和太郎さんと牛」に書かれたとおり茶店がありました。
岩滑と半田をつなぐ大道
大道は南吉が半田の本屋や喫茶店に行くときによく通った道です。安城高等女学校に勤めていたときは、半田駅から汽車に乗るため、毎日のようにこの道を歩いたはずです。写真は半田を背に岩滑の方向を向いて撮っています。右側に見えるのは妻木頼黄の設計で明治31年に建てられた旧カブトビールの建物です。半田市が保存し、年に1、2回公開されています。和太郎さんはビールも飲んだんでしょうか?
半田運河に面して立ち並ぶ酢の蔵
作品の中で和太郎さんは「酒樽を隣り村の酒屋から、町の酢屋まで」牛車で運びますが、半田や周辺の村々では江戸時代から酒や酢が盛んにつくられてきました。半田にはミツカン酢の本社があり、いまも昔ながらの酢の蔵が残り、その黒壁を運河の水面に映しています。



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