花のき村と盗人たち


南吉の第三童話集のタイトルにもなった「花のき村と盗人たち」は昭和17年5月に書かれたといわれています。死の10ヵ月前にあたるこの時期の作品には、平和な農村を舞台に人間の善性を謳う物語が多いのですが、「花のき村と盗人たち」はその代表的な存在です。
南吉が童話に描いた村といえば、多くの場合は故郷である岩滑や岩滑新田なのですが、この作品の場合、徹底して善人ばかりが暮らす村でなくてはいけないために「花のき村」という架空のユートピアをつくり、そこを舞台としています。しかし、じつは「はなのき」という地名は、南吉が女学校の教諭として過ごした安城に「花ノ木町」として実在するのです。おそらく南吉は、そのいかにも豊かで平和な村を連想させる語感が気に入ったのでしょう。ただ、東京から帰郷したのち職を転々として苦労の多かった南吉にとって、安城は彼を温かく迎え入れてくれた町でしたから、その安城の地名を自らの作品のなかに留めておきたい、と思ったかもしれません。
物語は、若い頃から悪事を繰り返してきた盗人の頭が他人から信用されたことで正しい心を取り戻す、という話です。南吉は「花のき村と盗人たち」以外にも「うた時計」や「ヌスビトトコヒツジ」など、悪人が善人(または純粋な子どもや動物)と触れ合うことで改心する物語をいくつも書いています。彼は人間を本来善なるもの(またはそうあってほしい)と考えていたようです。しかし、その一方で「おじいさんのランプ」や「牛をつないだ椿の木」のように、善人であってもふとした隙に悪い心を起こしてしまうという人間の弱い面も描いているのです。
孤独と病に苦しみながら人間の本質を追求しようとした南吉は、人間を一面ではとらえず、不安定な、しかし希望の光を持った存在として描いたのでしょう。

花之木橋の石柱

 1789(天明8)安城ヶ原の細田と大山田の間に「花ノ木田」という名の小さな田が開かれた。そこはハナノキの自生地で、春は濃紅色の花、秋は紅葉の美しいところでした。安城高女校の先生で童話作家新美南吉の作品「花のき村の盗人たち」の舞台となったところと言われています。1891年(明治24)に安城駅が開設されると、一本の野道の両側に家が建ち、商店が軒を並べ街が作られ「花ノ木通り」と呼ばれ人情豊かな町になりました。
 花の木橋は1925年(大正14)に永久橋に架け替えられ今も現役です。この川は中部小学校脇から分かれた明治用水の支流(枝川)で、錦町小学校の手前で追田悪水に合流します。当時この辺は最も賑やかな商店街でこの橋を乗合バスが通っていきました。

案内板「花ノ木と橋の由来」(文・神谷素光氏)より



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