南吉の言葉

 新美南吉は29年7ヶ月の短い生涯にたくさんの日記や手紙を書き残しています。それらのなかから彼の文学観、人生観、子ども観、故郷への思いなどを見てみましょう。そこには孤独と病苦に悩みながら、文学への夢と隣人達への愛を追い続けた求道者の姿があります。

◆余の作品は、余の天性、性質と大きな理想を含んでいる。だから、これから多くの歴史が展開されて行って、今から何百何千年後でも、若し余の作品が、認められるなら、余は、其処に再び生きる事が出来る。此の点に於て、余は実に幸福と云える。(昭4・3・2 日記)

◆やはり、ストーリィには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変る。(中略)俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィをかこう。(昭4・4・6 日記)

◆空想は尊い。空想にめぐまれた私は幸である。(昭4・10・30 日記)

◆児童達は、白紙だ。何物も心にかまえていなくて、新しく来た私に接してくれる。まったくうれしい。中学校とはてんで違うのである。(昭6・4・2 日記)

◆づっと前に作った創作童話「大男の話」を子供にしてやった。ひそひそと泣く子があった。私はうれしくなった。私の頭が作りあげた話が、子供の美しい涙に価するのが。(昭6・4・17 日記)

◆体力と言うことを近頃つくづく考えると与田さんが言ったが、自分も同じ様に考えている。同じ一つの生命を享けて誕生するなら、強い体力を持って生れて来たかった。(昭8・5・7 日記)

◆四谷の駅で父親について小さな女の子供が省線から下りた。入口の所に立っていた自分のヅボンにつかまって下りて行った。礼儀を無視した無邪気さが、こそばゆい様にその小さい手から、自分の体につたわって、心のそこからあふれて来る様にうれしかった。(昭8・6・10 日記)

◆夜ごと夜ごと踊りに弟とゆくピエロの私。笑う人は笑え。そしる人はそしれ。芸術も何も解らない、踊りの曲折にそうてゆくにはあまりに骨の固い人々を私はどうしてさげすみきらうことが出来よう。私も彼等も同じ人間である。何れに優劣があろう。神は、私と同じ程度に彼等の一人一人にも愛を垂れたもうた筈だ。私は彼等に愛をもたねばならない。嫌悪を通りこさねばならない。――ああ、私はミザンスロープだ。(昭8・8・22 日記)

◆便所の白いタイルの上に赤く咲いた血の花。喉の血か、鼻の血か、歯茎の血か。肺病だろうか。(中略)死ぬのは嫌だ。生きていたい。本が読みたい。創作がしたい。――やっぱり、同じように死にたくないと思いながらも、死に掴まれた文学する人が今まで沢山あったんだ。そうした人達のImageが一瞬自分の心をさむくした。(昭8・12・6 日記)

◆「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」(昭8・12作 「手袋を買いに」の母狐のつぶやき)

◆私達は無限の闇の底をいく一匹の蛍であるにすぎない。(昭10・3発表 「蛍のランターン」)

◆酒宴がたけなわとなる頃私は彼等無知な男達から一種の圧迫を感じた。私は彼等の逞しい肉体をうらやましいと思った。そして彼等こそ本当の人間であるとというように思えた。では私は何だろう。私は一種のひこばえの如きものかも知れない。しかも不幸なことには生活力のないひこばえが人一倍思考力を持っているのだ。(昭10・3・? 日記)

◆「かなしみは だれでも もって いるのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」(昭10・5作 「でんでんむしのかなしみ」)

◆何かをなしとげた人だからとて必ずしも偉くはない。何もなしとげなかった人の中にでもいくらも優れた性格がある。人のなしとげた事柄を尺度として人の価値をはかるべきではないのだ。(昭12・1・16 日記)

◆子供は話をきくときそれがありもしない作り話とは思わない。人物も出来事もすべて実在のものと思ってきく。そして彼等の静聴の仕方はいちじるしい。全器官――精神のみならず、すべての感官で持って話を味う。(昭12・1・18 日記)

◆都会が花ならば農村、漁村は根である。根から吸いあげた養分で花がぜいたくなおごりを営むように、都会は農漁村から吸いあげた物資で生活の装飾を続けている。ところで植物ならばそれでよいのだが、人間は植物とは違うのだ。(昭12・1・22 日記)

◆いついかなる場合、いかなる人間にでも通用するあの金銭の如き普へん性のあるものが人の思想の世界にもあって、その思想は誰もが信じ、その思想はいついかなる場合でも真理が考えられるという風ならば、この社会はもっと整然たる姿を保ち、もっと美しく住みよくなる事であろう。(昭12・1・22 日記)

◆はみだした人間である。自分は。(昭12・1・22 日記)

◆思想というものは知多郡のような平和なところでは少しも現実に対する力を持たない。(昭12・2・2 日記)

◆こんな風景は依然ちっとも自分の感興を起さなかったが、近頃はこんなありふれた身近なものを美しいと思うようになった。ごく平凡な百姓達でもよく見ていれば誰もが書いた事のないような新しい性格をもっており、彼等の会話にはどの詩人もうたわなかったような面白い詩がある。(昭12・2・4 日記)

◆自然のふところ。そこでは考えを整理する。(昭12・2・5 日記)

◆百姓家に生い立つ女にも娘という彼女等にとって一ばん美しい時期がある。その時は彼女等も花のようにとはいかぬまでも雑草のわか草どきのように位は美しくなるのである。(昭12・2・7 日記)

◆私の認識はいつも誇張されている。つまりあくまで私は詩人である。よい詩人悪い詩人ということは別として。(昭12・2・7 日記)

◆また今日も己を探す。(昭12・2・14 日記)

◆文学で生きようなどと考えて一生を棒にふって親兄弟にまで見はなされてこつこつやっているのは神様の眼から見ていいことなのか悪いことなのか、そこのところもよく解らない。(昭12・2・15 日記)

◆真の孤独感にはもはや感傷がともなわない。藁のように乾いている。感傷の涙のあるうちそれは真の孤独感ではないのである。而して感傷の全然ない孤独感はこの世に於ける一つの地獄である。(昭12・3・1 日記)

◆人間の心を筍の皮をはぐようにはいでいって、その芯にエゴイズムがあるといふことを知る時われわれは生涯の一危機に達する。つまり人というものは皆究極に於てエゴイストであるということを知るときわれわれは完全な孤独の中につきおとされるからである。しかしここでへたばってはいけない。ここを通りぬけてわれわれは自己犠牲と報いを求めない愛との築設に努めなければならない。こういう試練を経て来た後の愛はいかにこの世をすみよいものとすることであろう。(昭12・3・1 日記)

◆江口から九銭貼った封書が来た。僕が曖昧クリスチャンになったことを口を極めて排している。安易な愛をやめて、あくまで現実をばくろし、憎むべきは憎み、愛すべきは愛せよ。というのである。(昭12・3・3 日記)

◆ニイチエの道は遂に余の道ではない。ニイチエにきくものは偉大な男でなければならぬ。天才でなければならぬ。(昭12・3・10 日記)

◆子供の頃、私達には何一つ無駄なものはなかった。ガラスの破片さえわれわれはそれを生かして使うことを知っていた。(昭12・3・21 日記)

◆始めてマッチがすれた時、はじめて自転車にのれた時、はじめて倒立ちが出来たとき、あんな喜びは我々の一生のうちにそれほど沢山あるものじゃない。(昭12・3・21 日記)

◆名誉などいらない。このままこの海を見下ろす美しい小学校で教員をしていられたらとつくづく思うことがある。(昭12・5・10 河和小学校で代用教員をしてい時期の日記)

◆ナフタリンの匂いのする着物は何かよいことがあるときにしか僕の家ではきられなかったので、僕の鼻は今でもナフタリンの匂いを幸福の匂いと思っている。(昭12・6・7 日記)

◆恋しあうといえば何物か与えあっているようにきこえるが、そうではない。一生けんめいに奪いあっているのである。(昭12・7・2 河和小学校の同僚山田梅子と交際している時期の日記)

◆自分に満足を感じている人ばかりが他人の幸福を純粋に喜んでやることが出来る。(昭12・10・3 日記)

◆人間は皆エゴイストである。常にはどんな美しい假面をかむっていようとも、ぎりぎり決着のところではエゴイストである。――ということをよく知っている人間ばかりがこの世を造ったらどんなに美しい世界が出来るだろう。自分はエゴイストではない、自分は正義の人間であると信じ込んでいる人間程恐ろしいものはない。かゝる人間が現代の多くの不幸を造っているのである。(昭12・10・27 日記)

◆マルクス主義的な考え方を年少時代に体得してしまった我々二十代の青年達は一生不幸で終るようなことになるかも知れない。何故ならその考えはあくまで我々の心の奥深く巣喰い、併もそれはそれ自身で我々の運命を開拓していける程強いものではないからだ。もし我々が革命でも起すというならまだしもだが、我々はそうぢゃない。(昭13・1・8)

◆洽。温。厚。卓。(昭13・3・6 日記)  ※安城高等女学校への採用内定を受けて

◆さて僕は女学校の先生です。何だかヌクヌクして歩いている。この間まで感じていたあの運命的な素寒貧――あれはどうしたというのだろう。こうあっさり人間は一つの運命から他の全然異った運命に住みかえられるものか。(昭13・3・9 日記)

◆遠藤先生や巽の家で見た子供、東京の郊外で遊んでいた子供、彼等はいくら見ていても気持ちがわからなかったが、故郷の子供はこんなに直接にわかるのだなと思った。(昭14・1・1 日記)

◆近頃物をたのしむ心持ちがよくわかって来た。今まで僕の楽しみは文学だけ、ねてもさめても文学のこと、詩のことを考えていたが、近頃そうではなくなった。何にでも楽しみがあることがわかった。(中略)またそれが一層文学的だとも思うのである。(昭14・1・18 日記)

◆ゴーリキィの三人の追憶のトルストイの部も読んでしまった。ゴーリキィはトルストイに親炙して、これは偉大な人間、だが聖者ではない、聖者と思われたい欲望を持ち、人に押しつけることさえあった人間として見ている。恐らくその見方は正しいのであろう。私有財産をなげうったほどの男でもやはり、神ではない、人間、つまり自分ということを忘れえなかったのかと深い感慨をもよおした。人間はやはりどんな異状な人間でもエゴイストであるものか。(昭14・6・4 日記)

◆それからの久助君はこう思うようになった。――わたしがよく知っている人間でも、ときにはまるで知らない人間になってしまうことがあるものだと。そして、わたしがよく知っているのがほんとうのその人なのか、わたしの知らないのがほんとうのその人なのか、わかったもんじゃない、と。そしてこれは、久助君にとって、一つの新しい悲しみであった。(昭14・10作 「久助君の話」)

◆僕が病気したあとで到りえた仏教的な一切空の境地に彼が近づいているか、それとも別のどんな方向へ行っているか知りたいと思った。(昭14・12・28 日記) ※彼=友人の河合弘

◆僕は自分が弱いせいか性格のなかに何処か強いところがあるとそこに魅力を感じるらしい。(昭15・1・4 日記) ※女性について

◆考へて見れば、僕等の先輩達が西洋の学問をまなび、西洋の芸術をうけ入れ、西洋の言葉に親しんでいつたのも、大して深い理由からではなく。やはり一つの「流行」ではなかったのだらうか。/また現代、日本復帰があらゆる方面で喧しくさけばれ、猫も杓子も、日本音楽、日本画、日本の言葉、日本の茶、日本の何々といふ、それも亦大部分「流行」なのではないのか。(昭15・1・12 日記)

◆僕の教育は芸術家的な教育だ。僕の日記は芸術家的日記だ。僕は二年教育にたずさわって来たがまだ教育者のように教え、教育者のように物を見ることが出来ない。僕はしんから芸術家的だ。(昭15・1・13 日記)

◆一日の中の非常に多くの時間を、(殆どすべてを)僕は詩の、美の探究につとめているのだ。僕は一日のうちに三十分だけ創作的なよい気分に酔うことが出来、一つだけ満足のゆく詩が書けさえすれば、あとはどうだっていいのだ。いや一寸過言だ。(昭15・1・13 日記)

◆国民教育は先づ啓蒙であつた筈だ。今の社会に都合よく馴致された驢馬のやうな人間を造りあげることではなかつた筈だ。啓蒙すること、それだけで教育の使命は終るべきだ。啓蒙されたが故にそれらの人間が幸福になるか不幸になるか、そのために社会が右に行くか、左にゆくか、そんなことまで考へなくてもいいのである。(昭15・1・14 日記)

◆教育。愛をもって冷酷に。(昭15・1・14 日記)

◆自我主義は様々の面をかむってあらわれる。時には「滅私奉公」という、まるで正反対な面をかむることもある。こうした「滅私奉公」者は自分はそういう人の世に稀な、少数のすぐれたものであるという満足感から滅私奉公をするのである。もしその附近の人間がみな滅私奉公を始めたら、必ず彼は面白くなくなり。やがて滅私奉公も滅亡となるのであろう。(昭15・2・9 日記)

◆今まで愛知県南部の自然を平凡で見るべきものなしときめていたが、この頃決してそうでないことが解って来た。(昭15・4・2 日記)

◆僕の文学は田舎の道を分野とする。(昭15・11・24 日記)

◆法華経のことば「無垢世界。」「坐宝蓮華」(昭15・12・22 日記)

◆僕はどんなに有名になり、どんなに金がはいる様になっても華族や都会のインテリや有閑マダムの出て来る小説を書こうと思ってはならない。いつでも足に草鞋をはき、腰ににぎりめしをぶらさげて乾いた埃道を歩かねばならない。(昭15・12・26 日記)

◆愛されなかったので愛することを知らない。熱を加えられなかった物体がどうして温かくなりえよう。こうして、孤児は子供であるときも大人になってからも不幸である。(昭16・1・11 日記)

◆名古屋から帰って来ると我々の村は新緑の中に埋もれていた。うれしかった。(昭16・6・22 日記)

◆だらしのない奴だ、私は。いつでも口を動かしている子供のように、いつでも恋愛をしているのだ。(昭16・7・18 日記)

◆われわれ教員は喇叭手に似てゐる。政府がA曲を吹けといへばいやでもA曲を、B曲を吹けといへば嫌ひでもB曲を吹かねばならぬ。今政府がA曲といつてゐるとき、自分の好きな曲だからとてZ曲を一人吹いたら、政府は僕をどのやうに非国民呼ばりするだろう。ところで吉田松陰だ。彼は自分の好きな曲を好き勝手に吹いたのである。そのために生命も落したのだが。(昭16・10・26 日記)

◆「たわむれに仏の世を信じて見たり」するつもりである。あわよくば極楽浄土を信じたいものである。学問に毒された懐疑漢としては無理な願いだろうか。(昭16・12・24 日記)

◆この頃日々美しさがましてゆく。一枚一枚美しさが加わってゆく感じだ。考えて見ると四季のはじめはみなそうだ。初春、初夏、初秋、初冬。(昭16・12・31 日記)

◆この頃、毎日充実している。死を見つめているせいで。(昭17・1・10 日記)

◆毎日通っている小径のかたわらに今日一本の木をはじめて見つけた。それが何と二米もある程の木なのだ。われわれの知覚なんて、何という頼りないものか。だがこうだからこそ文学の題材がつきないのだ。(昭17・1・10 日記)

◆最後まで自分は生徒達に自分の死の間近なことをほのめかしたり、涙をこぼさせたりすることはやめよう。キ然として逝こう。(昭17・1・13 日記)

◆ぼくは井戸である。ぼくをとおして水は浄化され、ふきだす。(昭17 ・4 ・9  日記)

◆ねぎの花。大根の花。茱萸の花。雨にふられて咲いていた白つつじの花。自然は何とふんだんに花を馳走してくれることか。(昭17 ・4・10)

◆百姓達の村には、ほんとうに平和な金色の夕暮をめぐまれることがある。(昭17 ・4 ・19  日記)

◆ほんとうにもののわかった人間は、俺は正しいのだぞというような顔をしてはいないものである。自分は申しわけのない、不正な存在であることを深く意識していて、そのためいくぶん悲しげな色がきっと顔にあらわれているものである。(昭17 ・4・22 日記)

◆風呂につかりながら竹薮の月夜を見ることも出来れば蛙の声をきくことも出来る。湯は美しくて、足も見えるくらいだ。何というしあわせなことか。(昭17・5・3 日記)

◆「わしはもう、思いのこすことはないがや。こんな小さな仕事だが、人のためになることをしのこすことができたからのオ」(昭17・5作 「牛をつないだ椿の木」の主人公海蔵の言葉)

◆あぢさいにカンナが咲いている庭を白い蝶が一つちらちら遊んでいて静かである。わずかこれだけの平和をまもらんために、数万の同胞は血を流してたゝかはねばならぬのである。人間は何としあわせうすくうまれたものであらうか。(昭17・7・3 日記)

◆果して平和が常態なのか。戦いが常態であって、平和は戦いと戦いのすきま、つまり変態にほかならぬものではあるまいか。戦いが常態であるならば文学をすることも学問をすることも(実学以外は)何と無意味なことであらうか。(昭17・7・3 日記)

◆何でもゆるすこと。何でもうけ入れること。(昭17・7・4 日記)

◆よのつねの喜びかなしみのかなたに、ひとしれぬ美しいもののあるを知っているかなしみ。そのかなしみを生涯うたいつづけた。(昭17・7・10 日記)

◆或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。しかし或る悲しみは泣くことができません。泣いたって、どうしたって消すことはできないのです。(昭18・1作 「小さい太郎の悲しみ」)

◆きょうのように人にすっぽかされるというようなことは、これからさきいくらでもあるに違いない。俺達は、そんな悲しみに何べんあおうと、平気な顔で通りこしていけばいいんだ。(昭18・1作 「疣」)

◆私は東京に住んでいる画家です。もうずいぶん長いあいだ絵を描いて来ましたが、あまり有名ではありません。又これからさき、私の名がパッと花火のひらくように世にあがることはないだろうと思います。けれど、じぶんでいうのもへんですが、或る人達は、いつも私の絵を愛してくれています。これからさきも、その人達の愛はかわることはないと思います。もし、その人達が死ねば、その人達に代る人がまたあらわれて、私の絵を愛してくれるだろうと思います。それは少数でも、きっと、いつの世でもなくなることはないような気がします。(中略)私は大げさな絵はかきません。つつましい絵をかきます。つつましい絵の中に半分の夢と半分の現実をつきまぜるのです。(昭18・1作 「天狗」)※未完に終わった南吉の絶筆

◆たとい僕の肉体がほろびても君達少数の人が(いくら少数にしろ)僕のことをながく憶えていて、美しいものを愛する心を育てて行ってくれるなら、僕は君達のその心にいつまでも生きているのです。(昭18・2・9 教え子の佐薙好子に宛てた葉書)

◆はやく童話集がみたい。今はそのことばかり考えている。(昭18・3・8 亡くなる2週間前に巽聖歌へ宛てた最後の手紙)


 
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