新美南吉の生涯

 新美南吉は大正2年7月、愛知県知多郡半田町(現在の半田市)に生まれました。幼くして母を亡くし、養子に出されるなど寂しい子ども時代を送り、長じてからは健康に恵まれず、初めての童話集を出した翌年に29歳でこの世を去りました。
 しかし、その一方で文学の師である北原白秋、先輩詩人の巽聖歌・与田凖一、恩師の遠藤慎一・佐治克己、愛した女性の木本咸子・山田梅子・中山ちゑ、そして小学校や女学校での教え子達など数多くの出会いに恵まれもしました。
 南吉がその短い生涯に数多くの名作を書き残すことができた背景には、こうした人々の支えがあったのです。

年齢 で き ご と
大正2 7月30日、愛知県知多郡半田町岩滑(やなべ)で畳屋を営む父渡辺多蔵と母りゑの次男として生まれる。生後まもなく亡くなった兄と同じ正八(しょうはち)と名付けられる。
   6 4歳 11月、生母りゑ病没。
   8 6歳 継母志ん入籍。同月、異母弟の益吉生まれる。
   9 7歳 4月、半田第二尋常小学校(現・岩滑小学校)入学。
   10 8歳 7月、生母りゑの実家、新美家の養子となるが寂しさに耐えられず、12月、渡辺家に戻る。
   15 13歳 3月、半田第二尋常小学校を卒業し、4月、半田中学校(現・半田高校)へ入学。
 昭和2 14歳 この頃から盛んに童謡や童話を創る。
    4 16歳 『緑草』『少年倶楽部』等へ盛んに童謡や童話を投稿。岩滑の有志とガリ版刷りの同人『オリオン』を出す。5月、「少佐と支那人の話」(後の「張紅倫」)創作。
    6 18歳 3月、半田中学校卒業。岡崎師範学校を受験するが体格検査で不合格。4月から8月まで母校の半田第二尋常小学校に代用教員として勤務。この頃から木本咸子(みなこ)との交際が始まる。『赤い鳥』に童謡童話を投稿。「正坊とクロ」(8月号)、「張紅倫」(11月号)が載る。9月、童謡雑誌『チチノキ』へ加入し、巽聖歌と知り合う。10月、草稿「権狐」執筆。
    7 19歳 4月、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科に入学。はじめ巽宅に居候するが、9月から外語の寮に移る。『赤い鳥』に「ごん狐」(1月号)、「のら犬」(5月号)が載る。
    8 20歳 師の北原白秋が鈴木三重吉と訣別したことにより、この年の4月号を最後に『赤い鳥』への投稿を止める。12月、「手袋を買いに」創作。
    9 21歳 2月、初めての喀血。この年、「雀」「塀」等の小説を執筆。
   10 22歳 5月、「でんでんむしのかなしみ」など幼年童話約30編を創作。この年、木本咸子と別れる。
   11 23歳 3月、東京外国語学校卒業。東京商工会議所内の東京土産品協会に就職。10月、2度目の喀血。11月、帰郷。
   12 24歳 1〜3月、病気と孤独に悩む。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み、人間のエゴイズムと愛について考える。4月、河和第一尋常高等小学校(現・河和小学校)の代用教員となる。6月、「空気ポンプ」創作。同僚の山田梅子と交際。9月、飼料会社の杉治商会に就職。鴉根山畜禽研究所に住み込みで勤め、12月、本店の経理課に異動。
   13 25歳 4月、恩師のはからいで安城高等女学校(現・安城高校)の教諭となり、1年生(19回生)を担任する。
   14 26歳 1月、中山ちゑとの結婚を考える。5月から「哈爾賓日日新聞」に「最後の胡弓弾き」「久助君の話」「花を埋める」等を寄稿。7月、生徒らと富士登山。8月、伊豆大島、東京へ旅行。
   15 27歳 6月、中山ちゑ死去。「哈爾賓日日新聞」に「屁」「音ちゃんは豆を煮ていた」「家」等を寄稿。『婦女界』に「銭」、『新児童文化』に「川」が掲載され、ようやく世に注目され始める。
   16 28歳 1〜3月、学習社の依頼で「良寛物語 手毬と鉢の子」を執筆。無理がたたって体調を崩し、弟宛に遺言状を書く。10月、初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』(学習社)出版。12月、血尿が出る。
   17 29歳 1月、腎臓を患い通院。3月「ごんごろ鐘」、4月「おじいさんのランプ」、5月「花のき村と盗人たち」「牛をつないだ椿の木」「百姓の足、坊さんの足」等代表作を次々に書き上げる。10月、第一童話集『おじいさんのランプ』(有光社)出版。
昭和18 病状悪化。自宅で療養しながら「狐」「小さい太郎の悲しみ」「疣」を執筆。未発表作品を巽聖歌に送り、出版を依頼 3月22日、喉頭結核のため永眠。29歳7ヶ月。法名釈文成。

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